目が覚めた瞬間から、すでにフラフラだった。
金曜日がやってきた。
今夜は満月。7月の満月は「バックムーン」と呼ばれるらしい。
しかも今宵はスーパームーン。一年でいちばん大きく見える満月。
まるで空に浮かぶ巨大な提灯。誰があんなの吊るしたんだろうか。
……たぶん重くて肩こるだろうな。
体調が悪いのか、月のせいなのか、それすらも判断がつかない朝。
とりあえずアイスコーヒーを淹れる。
暑い。いや、暑すぎる。アイスがすぐに溶ける季節が来た。
それでも俺は車に乗り込んだ。
なぜ、こんな状態で“あの場所”に向かうのか?
エリザベス一世が無敵艦隊に立ち向かったように、
俺にも「守るべき土地」があるのかもしれない。
まあ、そこにロマンはない。ただの現場だ。
無敵艦隊は強大だった。
正面からの撃ち合いでは勝てない。
イギリスは風を待った。
潮目が変わるのを信じて、ただ守りを固めた。
大砲の弾が尽きるギリギリで、突如として吹いた“神の風”が流れを変えた。
勝利とは、準備と運が重なる場所にしか生まれない。
凡人が優れたものを引き継げば台無しにし、
明君が続いてもやがて滅びる。
エリザベス一世は、国を飛躍的に良くしたわけではない。
ただ、「悪くしなかった」。
それが、何より難しい仕事なのだ。
文学や教養を学び、感情に流されず、文化を活性化させた。
まとめる力を持ち、何よりバランス感覚に優れていた。
そういうリーダーこそ、今の時代にこそ必要かもしれない。
などと歴史に思いを馳せていると、道の真ん中に鴨がいた。
車道でくつろいでいる。
「そこ、遊ぶとこじゃないぞ」と呟くが、鴨は一向に動かない。
こっちも引き返せない。
エリザベスならどうしただろう。たぶん、気高く迂回するんだろうな。
あの場所に着く。気力も体力も尽きかけていた。
これで一日乗り切れるんだろうか。
でも、始まってしまえば日常は動き出す。
いつものチャイムが鳴る。
「人は忙しい方がイキイキする」なんて言葉もあるけれど、あの場所には活気なんてなかった。
エアコンも金曜日仕様でお疲れ気味。
ため息のリズムがBGMになる。
そんな中、昼の鐘が鳴った。
うどん小屋、今週最後の営業。
迷わず「牛しぐれうどん」を注文。
スープの表面に浮かぶ脂が、希望に見えた。
これで午後もなんとか生き延びられそうだ。
うどんをすすりながら、ふと思った。
**「人を変えるって、無理だな」**と。
どれだけ言葉を尽くしても、人はそう簡単には変わらない。
だから、変わるなら自分。
いや、変わるというより“整える”のが正しいのかもしれない。
彼を知り己を知れば、百戦して殆うからず。
孫子の言葉が、スープの底から立ちのぼる。
まずは、相手を知ること。
そして、自分がどう動くかを考えること。
戦いは、いつの時代も変わらない。
でも、勝とうとしなくてもいい。
「負けない戦い」を積み重ねること。
それが今の時代の生き方なのかもしれない。
午後、スピーカーから選挙のお知らせが流れてきた。
「選挙に行きましょう」と、いつもの声が。
来週、この国の風向きが変わるかもしれない。
嵐の前の静けさのなか、ふと、空を見上げた。
満月がこちらを見下ろしていた。
まるで何もかも知っているような顔で、
それでも何も言わず、ただ静かに、まっすぐに。
今夜、あの光の下に世界中の誰かが希望を託し、誰かが涙を流し、誰かが牛しぐれうどんをすする。
変わるのは、きっと月ではない。
変わるのは、ここに立つ、この足だ。
さあ、帰ろう。
月の引力に背中を押されながら。
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