あっちの世界のあの場所にいた。
ここにも、あの場所があったのか。
俺は、言葉にならない絶望感に襲われた。
脳の奥に、何か黒く重たいものが沈んでいくような感覚。
夜明けと共に目が覚める。
布団の中でしばらく動けなかった。
どうも心も身体も重い。
週の真ん中、水曜日。
のどの奥が締めつけられているようだ。
部屋にこもった湿気まじりの空気を、扇風機で全開に押し出す。
でも俺の中の重たいものまでは、風じゃ運べない。
それでも何かを動かしたくて、スイッチを押した。
スマホを手に取り、昨夜のナイターの結果を見る。
また逆転負けか。あぁ、厳しい試合だった。
思わずため息が漏れる。
アメリカの市場は夜に動く。
経済ニュースが淡々と流れてくる中、
「このままアメリカが世界を支配し続けるのか」なんて、哲学めいたことを考えていた。
でも未来なんて、誰にもわからない。
ただ、今をなんとかやり過ごすことしか俺にはできなかった。
車に乗り込むと、ラジオが流れ始めた。
今日はイギリス王室の話。
エリザベス一世――かつて世界の覇権を握っていた国の女王。
彼女は10歳にして4ヶ国語を操ったという。
「二重翻訳法」なんて言葉も飛び出して、思わず眉をひそめる。
勉強がストレス解消だったという彼女の話を聞いて、俺はちょっとだけ嫉妬した。
でも、そんな彼女もストレス性胃炎になったらしい。
王族だって人間だ。
なんだ、俺と同じか――
そう思ったら、少しだけ救われた気がした。
あの場所がある街に着く。
見上げると、曇り空の下に、カラスが電線に列をなしていた。
まるで俺を見下ろしているようで、居心地が悪い。
あの場所の門の前にはあいかわらず人が立っている。
長袖長ズボン、ヘルメット。
熱中症に気をつけましょうと書かれたプラカードを掲げているその姿が、なんだか滑稽に見えた。
でも、その滑稽さが、かえってこたえる。
矛盾ってのは、あの人たちのためにある言葉なんじゃないか――
そんなことをぼんやり思った。
梅雨が明けて、気温はすっかり夏だというのに、海には靄がかかっていた。
朝の鐘が鳴る。
それが合図のように、心の奥がザワつく。
イライラが湧き上がってくる。いや、湧き上がるというより、溢れ出す。
胃に穴があきそうだった。
もしかしたら、もうあいてるのかもしれない。
そう思いながら、ふとラジオで聞いたエリザベス一世の顔が浮かんだ。
彼女が感じていたストレスに比べれば、
あの場所でのストレスなんて、本当に些細なことなのかもしれない。
そう思うと、少しだけ、自分を保てた。
でも、現実は変わらない。
俺の戦いはまだまだ続く。
周りは敵ばかり。
それでも俺は、ここにいなきゃならない理由がある。
うどん小屋の鐘が鳴った。
その音が、唯一俺の心をほどく。
まずは塩分。今日は糖分も欲しい。
うどん小屋で、いつものあつあつうどんをすすった。
出汁の香り、もちっとした麺、
それだけで、心がほぐれていくのがわかった。
「ああ、やっぱり、食べるってすごいな」と思う。
身体が、そして心が、少しずつ蘇っていく。
とりあえず、一旦、あっちの世界へ――
でも今日は、あっちの世界に呼ばれなかった。
どうやら、あの場所に対するストレスが強すぎるようだ。
いかんいかん、と自分に言い聞かせる。
そもそも、なんで俺はこんな場所でこんなにストレスを溜めてるんだ?
「適当でいいんだよ」
そんな声が、どこか後ろから聞こえた。
振り向いたが、誰もいなかった。
前を向くと、机の上に一杯のラーメンが置かれていた。
うどん小屋のうつわに、本格醤油ラーメン。
まさか…
まさか、うどん小屋のおばちゃんが、俺のために――?
言葉にならなかった。
湯気が立ち上るその一杯を、そっとすすった。
うまい…
心に染み渡るような、優しい味だった。
そして、不意に一粒の涙が、頬をつたってラーメンのうつわに落ちた。
うどん小屋のおばちゃん、醤油ラーメンが…
塩ラーメンになっちまったよ。
コメント