長い長い物語を、俺は読んでいた。
それはとても不思議な物語で、あっちの世界に行ったかと思えば、すぐこっちの現実世界に戻ってきたりする。
まるで呼吸をするみたいに、自然に行ったり来たりできるその世界は、複雑で、面白くて、そしてちょっとだけ優しかった。
朝、目が覚めた瞬間、俺の身体は重力に押しつぶされていた。まったく、寝返りをうつことすら困難だ。
完全にピンチである。
俺は“起きる”という小さな闘いに、全力で挑んだ。結果、なんとか勝利。疲労感だけが残る。
「なぜここまでして俺はあの場所を目指すのか?」
自問しながら、重い身体を車に押し込めた。
運転中は不思議と集中できるから不思議だ。意識はスーッと整っていく。
現地に着いた頃には、再び身体の重さが襲ってきた。まるで“あの場所”の重力が、通常の1.5倍に設定されているような気さえする。
門をくぐると、俺は静かにつぶやいた。
「これは……いい修行になりそうだ」
意識を整えて、パソコンの電源を入れる。
メールの受信ボタンを押すと、案の定、雪崩のような受信通知。
「午前中の仕事はこれで決まりだな」
軽く絶望しながら、俺は意識を“向こうの世界”へと切り替えた。
目を閉じると、冷たい空気の流れる洞窟にいた。
脳裏には“不安”という文字が、ふわっと浮かんで、そして消える。
遠くで鐘の音が鳴った。これは、はじまりの合図だ。
「とりあえず体操からだな」
考えるのは、それからでいい。
メールを片っ端から既読にする。ほとんどが連絡事項。
「グラウンドが駐車場になります、ご了承を」
「了解です」
心の中でそうつぶやく。
中には重要なメールもたぶんある。でも今日はもう、うどんのことしか考えられない。
「そうだ、今日はきつねうどんにしよう」
ふと、うどん小屋のおばちゃんのことを思い出した。
姿を見なくなって、もうずいぶん経つ。
彼女はいまや、伝説の人物だ。
そろそろラジオ番組で特集が組まれてもおかしくない。
「“幻のきつね”~消えたうどん小屋のおばちゃんの謎~」とかなんとか。
そして今日。
そう、今日はメジャーリーグのオールスター。
日本人選手も何人か出ているらしい。気になって動画を開こうとしたが、繋がらない。
きっとみんな観ているんだろう。
「オールスターが来ると、今年も半分終わったな」
季節のスピードについていけず、少し目が回る。
やっと動画が繋がった。
ニュースではメジャーリーグのオールスターの話題でもちきり。
ケータリングの料理も映されていたが、俺の目はある一点に釘付けになった。
そこに、見覚えのあるうつわがあったのだ。
あつあつの、きつねうどん。まさか……
そのとき、場内アナウンスが鳴り響いた。
「始球式を務めるのは、日本で一番有名なうどん小屋のおばちゃんです!」
観客がどよめく。
まさかの、あのスーパースターと並んで、おばちゃんが立っている。
エプロン姿のまま、やけに堂々としていた。
打席には、世界が注目するスラッガー。
その隣で、うどんをかき混ぜるおばちゃん。
始球式というより、何か別の儀式のようだった。
だが、奇妙なその光景には、なぜだか胸が温まった。
思えば、どんな華やかな舞台にも、どこかに“日常”の香りがある。
派手なユニフォームの向こうに、あの日の湯気が見えることもある。
「オールスターだなあ」
画面越しに俺はつぶやいた。
こうして今年のオールスターは、うどんとスーパースターの香りをまとって、静かに、そして愉快に幕を開けた。
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