俺は真っ赤なポルシェで峠を攻めていた。
圧倒的な加速、どんなコーナーも思いのままの旋回性能。そして、唯一無二のデザイン。
まさにドイツが生んだ最高傑作。イタリアの跳ね馬もいいけど、俺は断然、ドイツの跳ね馬派だ。
そんなとき、目の前で突然、事故が起きた。
慌てて車を降り、救助に駆けつける。周囲の人たちも同じように手を貸す中、事故当事者のオヤジが車から降りてきた。
事故のショックで混乱してるんだろう――最初はそう思ってた。
ところが、そのオヤジ、突然救助を手伝ってる人に怒鳴り始めた。
無理やり引っ張ってどこかに連れて行くかと思えば、戻ってきてはまた別の人に怒鳴る。怒りのスタンプラリーでもしてるのかと思った。
さすがに見かねて、俺は聞いた。
「救助手伝ってるのに、その態度は何だよ?」
オヤジは言った。
「若いやつらの動きがトロくてイラつくんだよ!」
……なるほど、理不尽ってのはこういう場面を言うんだな。
これは、あっちの世界で俺が何度も見てきたやつだ。
この世には、いろんな奴がいる。理屈じゃ通じない世界もある。
ふと我に返ると、俺はこっちの世界に戻っていた。
あんなオヤジ、もう二度と遭遇したくない。
そういや昔、本で読んだことがある。
「どんな行動にも何かしらの理由がある」って。
でも誰かが言ってたな、「この世は理不尽でできている」って。
時計を見ると、まだ深夜0時過ぎだった。
とんでもない場面に遭遇したもんだ。
俺は目を閉じ、再びあっちの世界へ。
気がつくと、田舎のばぁちゃんの家にいた。
田んぼに水が張られ、草木は生い茂り、風が気持ちいい。
これぞ日本の原風景。
俺はその中を、子どものように走り回って遊ぶ。
親戚も集まってきてる。法事かな、たぶん。
思いきり遊び疲れて、畳の上でそのまま眠ってしまった。
そして、目を覚ますと、現実世界の朝。
「あぁ、戻ってきたな」と思うと、なんだかすごく息苦しい。
でも行かなくちゃいけない。あの場所へ。
めちゃくちゃ眠たいけど、俺は車に乗り込んだ。
外に出ると、今日はやけに曇ってる。
梅雨に逆戻りしたみたいな空。でも気温はすでに夏だ。
車のラジオからは、ペリーの話が流れてる。
そう、日本に黒船でやってきたあのペリー。
なぜ彼は鎖国を迫ったのか?
そのときアメリカでは何が? 世界では何が起きてた?
オープニングだけでワクワクするけど、続きは聴けなかった。
あの場所に着いたからだ。
今日の気分はどんよりしている。
空のせいか、それとも昨夜のせいか。
はじまりの鐘が鳴る前、少しだけ眠ることができた。
思った以上に深く眠っていたみたいで、夢の世界には行けなかった。
そして、鐘の音で目を覚ます。
ざわめく、あの場所。
今日もスタートは朝の体操から。
誰もやらないのに、スピーカーから流れる体操の音楽。
上がやらないなら、下もやらない。
組織ってそういうもんだ。
そのあとは、安全放送。
どこかのおじさんが棒読みで読む、安全へのお知らせ。
小さな声でツッコんだ。「もうちょっと練習したほうがいいんじゃない?」
これじゃ災害も避けられないよな。
あの場所は、まさに治外法権。
みんな、自分ルールを持ってる。
唯一、共通しているのは「覇気がない」ってことだ。
昼が来てうどんの時間を告げる鐘が鳴る。
外に出ると、空はまだ曇ってるけど、湿度はうなぎ上り。
うどん小屋に着くと、すでに行列ができていた。
この場所で唯一、ちゃんとルールが守られているのが、このうどん小屋だ。
国籍も年齢も関係なく、みんな笑顔だ。
きっと、あっちの世界の甲板のラーメン屋も、今ごろ笑顔にあふれてるんだろうな。
あの船の上でも、きっと誰かがラーメンをすする音がしてる。
湯気の向こうで、誰かの一日が始まってる。
俺は、裏メニューの「牛しぐれ煮うどん」を注文した。
こう暑いと、しっかりエネルギーになるものを食べないと。
うつわから立ちのぼる湯気が、どこか懐かしい匂いを連れてくる。
田んぼで駆けまわったあの夏の記憶も、事故の夜に見たあの理不尽も、
全部この一杯の中に溶けていくような気がした。
並んで、待って、食べる。
ただそれだけのことが、今日は少しだけ尊く感じた。
うどん小屋の列は、今日も静かに伸びている。
タケルもダイチも、ちゃんと並んでいる。
その背中が、なんだか頼もしく見えた。
コメント