戦いは、あの世界でも、この世界でも起こりうる。
そしてそこに生まれる「正義」は、時に人を突き動かし、時に心を壊す。
今日から八月。金曜日の朝。
目覚めは悪く、夢の続きを引きずるような重たい気分だった。
とにかく顔を洗って、シャツに袖を通し、玄関のドアを開ける。
車のエンジンが妙に唸っていたのは、俺の気持ちを代弁していたのかもしれない。
ラジオからは、戦時下の官僚についての特集が流れていた。
内容は重く、しかしどこか淡々としていた。
「法に則って、それをやる。与えられた任務を、誇りを持って遂行する」
そう語る官僚の音声が流れる。
彼は、自分なりの正義感に従って職務を果たしていたという。
民主的に選ばれたトップが定めた法律。それに従うことこそが市民の義務であり、道徳であると信じていた。
けれどその「正義」が、誰かの命や心を壊していたとしても、それは職務の中に溶けていく。
「良心を克服してでも、秩序を守らねばならない」
そう語る声に、俺は耳を澄ませていた。
本当にそれが正義だったのか?
自分では決められない。
社会が決めた「正解」に、人はいつしか慣れていく。
それを洗い流すのは、容易なことじゃない。
深く、静かに、そんなことを考えながら、俺はあの場所の街へ着いた。
門をくぐると、マイクを手にしたシンガーソングライターが朝の空に向かって歌を歌っていた。
セミの合唱と、ハトの羽ばたきが即席のオーケストラになっていた。
けれど誰も足を止めなかった。
朝にしては暑すぎたのかもしれない。
俺も、何も言わずにその前を通り過ぎ、いつものあの場所に入った。
始まりの鐘が鳴る。
軽く体操を済ませると、スピーカーから放送が流れてきた。
その中から、さっきのシンガーソングライターの歌声が再び聴こえてきた。
魂のこもった歌声だったが、誰も耳を傾けようとはしなかった。
せめて俺だけでも、聴いていようと思った。
歌が終わると、あの場所の一日が本格的に始まった。
今日は月初。
一ヶ月の仕事を見渡して、納期を調整し、割り振りを考える。
お盆も控えている八月は、ペース配分が鍵になる。
そんなこんなで、朝の時間はすぐに過ぎていった。
昼の鐘が鳴る。
国営放送が始まり、心地よいメロディーが流れてきた。
その音に重なるように、聞き覚えのある歌声がスピーカーから響いた。
——あの、うどん小屋のおばちゃんの声だった。
向こうの世界にいるはずの彼女が、なぜかこっちの世界に来て歌っている。
もちろん、彼女がここにいるわけじゃない。
それでも、声だけは確かに届いていた。
その事実だけで、俺は胸がいっぱいになった。
俺は、あのやさしい歌を聴きながら、きつねうどんをすする。
出汁の香りが、妙にあたたかい。
完食と同時に、放送も終わった。
いつもの午後を告げるメロディーが流れる。
その音は、なぜか毎回胸を締めつける。
逃げ出したくなる。涙が出そうになる。
理由はわからない。けれど、確かに心に重たく残る音だった。
ふと、風が吹いた。
その風に乗って、もう一度あの歌声が聴こえた気がした。
きっと、どこかで——この世界のどこかで、
うどん小屋のおばちゃんは、
今日も誰かのために歌っているんだろう。
俺はそう信じて、午後の仕事へと向かった。
あと半日。
風と共に流れるその歌を、背中で聴きながら。
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