気がつくと、あの場所にいた。
机の上に一通の封筒が置かれている。
恐る恐る開けてみると、どうやら健康診断の結果らしい。
——そうか、先週の金曜、有給休暇を取ったときに配られたのか。
結果を見ようとしたその瞬間、元の世界からアラームが鳴った。
朝が来た。
憂鬱な月曜日だ。
あの場所へ向かう準備をする。身体は重い。
でも、行かねばならない。
玄関を開けると、もうすでに夏の匂いが立ち上っていた。
「今日も暑くなりそうやね〜」と、誰かの声が頭の中でつぶやく。
車に乗り、エンジンをかける。
エアコンとラジオのスイッチを押す。
今日のラジオのテーマは——ゴッホ。
「日本でも“ひまわり”で知られる、あのフィンセント・ファン・ゴッホです」
DJの声が淡々と続く。
浮世絵に魅了されたゴッホは、日本の絵に学び、線で雨を表現する技法に心を奪われた。
当時のヨーロッパでは雨は粒で描くものだった。
けれど日本の雨は、線だった。
その表現に、ゴッホは波長を合わせていった。
彼は感じたままを描いた。印象派と呼ばれたその手法は、既存の価値観とたびたび衝突した。
模写を重ねながら自分の色彩を見つけ、明るさを求めて南仏へと向かった。
そこには、テオという弟がいた。
同じ屋根の下で暮らし、兄を支え続けた弟。
ゴッホの絵が世に認められることは生前にはなかったが、テオだけは最初から才能を信じていた。
そんな話を聞いているうちに、俺の車はあの場所のある街へとたどり着いた。
鳩が空を舞い、ハーモニーを奏でる。
セミたちは、夏の合唱コンクールに向けて、練習の真っ最中だ。
俺は門をくぐり、あの場所へと戻ってきた。
パソコンの電源を入れ、ゆっくりと起動を待つ。
恐る恐るメールを開く。
「ああ……今日も朝からメール処理で半日終わったな」
はじまりの鐘が鳴るまで、向こうの世界に少しだけ行ってこよう。
できることなら、そのまま戻ってきたくはない。
けれど、あっという間に鐘は鳴る。
現実に引き戻され、メールを片っ端から既読にする。
その大半は、どうでもいい内容だ。
でもときどき、大事なやつがまぎれている。
午前中の会議が終わる頃、再び机に封筒が置かれていた。
今度こそ開けてみる。
——健康診断の結果だった。
「良」と判定された横に、丁寧な生活習慣アドバイスが添えられている。
そして封筒の中には、今年のうどん小屋の年間パスポートが同封されていた。
やった。これで一年、うどん生活だ。
ちょうどそのとき、うどん小屋の鐘が鳴った。
真夏の昼下がり。今日も気温はうなぎ上りだ。
でも、こんな日でも頼むのはやっぱり——熱々のきつねうどん。
汗をかきながらすするうどんは、なぜか夏の疲れをほぐしてくれる。
店の片隅には、うどん小屋のおばちゃんの似顔絵ポスター。
「今日も、ようけ食べてってや〜」というキャッチコピーが、どこか胸にしみる。
しっかりうどんのエネルギーを取り込んだ俺は、再び、もうひとつの世界へ旅立った。
⸻
気がつくと、そこは大きなホールだった。
どうやら学生たちの発表会がこれから始まるらしい。
テーマは難解で、俺にはよくわからない。
でも、壇上に上がる学生たちはみな真剣な表情で、それぞれの発表をしていく。
夏の課題か、長期の研究か。
中には「なんで自分がここにいるんだ」という顔をした生徒もいた。
たぶん、メインで進めるやつがいて、それに引っ張られてきたパターンだろう。
発表が終わると、質疑応答の時間。
下の席には、専門家と思しき人物が並んでいる。
そして、その中にやっぱりいた。
うどん小屋のおばちゃん。
この世界ではもはや、誰もが知る著名人だ。
発表が終わるたび、生徒一人ひとりに丁寧に感想を述べ、優しい言葉をかけていく。
何を話しているのかは、俺には聞こえない。
でも、その声には不思議と安心感があった。
そして、最優秀賞の発表。
賞品は——うどん券一年分!
会場がどよめく中、壇上に呼ばれたのは——
カピバラのタケルとダイチのグループだった。
彼らの研究テーマは……?
その瞬間、俺は目を開けた。
再び、元の世界に戻っていた。
なんだったんだ、あの研究は。
パソコンに目をやると、午後の予定が通知されている。
「職場の発表会があります。会議室にお集まりください。
テーマは『職場のお昼ごはんについて』です」
俺は静かに立ち上がり、会議室へと向かって歩き出した。
タケルたちのテーマの続きを、どこかで期待しながら——。
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