気がつくと、俺はあの場所がある街に立っていた。
時計を見る。完全に遅刻だ。もう言い訳のしようもない。
どうしたものか……足が重い。あの場所に向かうのが、正直、辛い。
理由を考えるまでもない。ただ辛い。ただ、行きたくない。
ああ、本当に、どうしてこんなに辛いのだろう。
昨夜はうなされて何度も目が覚めた。夢と現実の区別もつかない。ただ目が覚めて、そしてまた眠って、気づけばまた覚めていた。
朝を迎えたとき、まだ夜の気配が心に残っていた。
こんなに憂鬱な朝は、いつぶりだろうか。
それでも時間は進む。俺は胃の痛みをこらえながら、車に乗り込んだ。
ラジオが喋っているが、言葉は頭に入ってこない。
ただ右から左に抜けていく。内容なんてどうでもよかった。
車窓の外では、セミの合唱コンクールの練習が盛り上がっている。
ハトのハーモニーも、なかなかの出来だ。
川には相変わらず船が沈んでいて、ツバメが空をかすめる。
高校生たちが集まっていて、どうやら今日はボクシングの試合があるようだ。
俺もリングに上がって、誰かと殴り合いたい気分だった。
速攻でKOされる自信はあるが、それでも構わない。
少しだけ、気が楽になる気がした。
でも、本当のところ、俺はまだ憂鬱だ。
理由もなく落ち込むこともあるけれど、今朝のそれは明確に「理不尽」だった。
はじまりの鐘が鳴る。
気になっていた案件のメールを確認する。とりあえず、依頼は関係者に送られていた。
ちょっとだけ、気が楽になる。
そのとき、一通のメールが届いた。
「津波に注意」
日本の遠くで、大きな地震があったらしい。
津波の情報をネットで確認する。
確かに、規模の大きな地震が起きていた。そして実際に、日本のいくつかの沿岸には津波が到達したようだった。
幸い、被害は今のところ小さいようだ。
けれども油断はできない。
あの場所があるこの街は海に近い。
地震と津波への備えは、冗談じゃ済まされない。
命は、自分で守らなければならない。
誰かが守ってくれるとは限らないのだ。
「かならず大地震は来る」と、よく言われる。
だからこそ、備えあれば憂いなし――そんな言葉をかみしめながら、
俺はいつもの「うどん小屋」を目指した。
今日は、きつねうどんにした。いつも通りだ。
出汁の香りが胃の痛みをなだめてくれる。
生きていれば、いろんなことがあるけれど、
こんな日常があることに、心から感謝しなくてはいけないと思った。
ふと、向こうの世界が気になった。
あの、もう一つの世界。
俺は静かに目を閉じる。
――サイレンの音が耳を打つ。
「これから避難訓練を開始します」
放送が流れる。どうやら、こっちの世界でも避難訓練が始まるらしい。
空気が一気にピリつく。
ガスの元栓を確認する人。段ボールを運ぶ人。
その中に、見覚えのある後ろ姿があった。
うどん小屋のおばちゃんだ。
真剣な表情で、災害時のキッチン対応マニュアルを確認している。
……さすが、うどん小屋のおばちゃん。
俺は、彼女の動きを目に焼き付けた。
たぶん、あの慎重さと正確さが、今日のうどんを生き延びさせたのだろう。
訓練は続く。
俺はおばちゃんと一緒に、避難した。
きっと、この訓練が、いつか俺たちの命を救う日が来る。
そう信じたい。
そして、その日ができる限り来ないよう、今をちゃんと生きよう。
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