俺はスポーツカーに乗ろうとしていた。
シートに体を沈めてみるが、どうにも落ち着かない。
純正のままでは、どうやら俺の体型には合わないらしい。
店員が「これ、交換できますよ」と言って、手際よくシートを外し、別のシートを持ってきた。
その動きがとてもスムーズで、まるで長年連れ添った相棒と会話しているかのようだった。
新しいシートに腰を下ろすと、今度はぴたりと収まった。
なるほど、こういうのを“しっくりくる”って言うんだろう。
そのまま俺は、そのスポーツカーで旅に出た。
エンジン音と風の音だけが心を満たし、どこまでも行けそうな気がした。
アラームの音で目が覚める。
夢だった。
あっちの世界では旅に出た俺が、こっちの世界ではまた月曜日に戻ってきた。
そう、あの場所へ行く時間だ。
着替えながら考えていたのは、メディアという存在についてだった。
俺たちは情報の波に浸かりすぎていて、自分が何を見て、何を信じてるのかすらわからなくなることがある。
メディアって何だろう。
単なる情報伝達の手段か、それとももっと大きなものか。
権力が、特定の意図のために人々の認識を変えようとする装置。
そんなふうに思えてならない。
誰かに何かを伝えようとする技術、それがメディア。
そう定義するなら、最古のメディアは「文字」だった。
文字の誕生によって、概念や知識を秩序立てて保存することが可能になった。
川というインフラのまわりに人が集まって文明が生まれたように、文字という知のインフラのまわりにも人が集まり、国が生まれ、社会が形を持ちはじめた。
文字を最初に統制したのは、権力だった。
支配者は文字によって知を支配し、情報の流れをコントロールした。
書かれたことだけが「真実」になり、書かれなかったことは存在しなかったことになる。
ときには書物が焚かれ、ときには歴史が塗り替えられた。
未来に語られるはずだった物語すら、表に出てこないこともあった。
そして時代は進み、ラジオやテレビが生まれ、やがてインターネットが登場する。
マスメディアを握った者は世論を操作できるようになった。
その力は絶大だ。
でも、そのメディアを今誰が握っているのか、はっきりとはわからない。
昔は国家、今は企業か。
それとも、もっと曖昧な集合意識のようなものなのかもしれない。
そんなことを考えながら、もわっとした空気の中、俺はあの場所へと向かった。
門をくぐり、タイムカードを押す。
月曜の、いつものあの場所。
周囲を見渡せば、どの顔も疲れている。
俺も例外じゃない。
はじまりの鐘が鳴り、体操が始まる。
スピーカーからおじさんの声が流れてきたけど、いつも通り棒読みでまったく心に響かない。
あれじゃダメだなと思いながら、水滴がポタポタと通路に落ちる音に気づく。
誰かが、自分の洗ったコップをよく拭かずに持ち歩いていたらしい。
この場所には、時々常識の通じないやつがいる。
そういう細かいところに、空気の悪さが滲み出てくる。
ミーティングを終える頃、うどん小屋の鐘が鳴る。
外は相変わらず暑い。
常連たちが次々と小屋に集まってくる。
ここには、せめて少しでも常識のある空気があってほしい。
そう思っていたところに、「やれやれおじさん」が登場した。
彼は今日もやれやれと大声で連呼している。
正直、あのやれやれの中にどんな意味が詰まっているのか、俺にはわからない。
でも、あれが彼なりの「表現」なのかもしれないなと、少しだけ思った。
俺はきつねうどんをすすりながら、彼のやれやれをBGMに耳にした。
午後、俺は次のイベントのことを考える。
どんな屋台を出すか。
どうすれば価値を感じてもらえるか。
考えるのは楽しいし、そこにはちゃんと自分の意志がある。
メディアから得た誰かの意見じゃない、自分の五感で感じたことをもとにしている。
結局のところ、メディアの情報は参考程度にしかならない。
実際に足を運び、目で見て、舌で味わい、肌で感じたことが、一番信頼できる。
情報が溢れるこの時代に生きる俺たちは、何を信じて、何を捨てるのか、自分で選べる。
選択肢が多いぶん、責任もあるけど、それこそがこの時代の強さでもある。
夢の中のスポーツカーの旅は、幻想だったかもしれない。
でも、目を覚ました俺が今、現実の道をどんな車でどう走るのかは、自分で決められる。
メディアに流されるんじゃなくて、自分で舵を取る。
どこまで行けるかなんてわからないけど、アクセルを踏むのは、俺だ。
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