目が覚めると、まだ外は真っ暗だった。
時計は午前二時を指している。エアコンを止めて窓を開けると、冷たい風が部屋の中にそっと入り込んできた。ああ、この感じ、好きだなと思う。涼しさが身体をやさしく撫でていく。心地よくて、俺はもう一度、静かに眠りへと戻った。
気がつくと、朝が来ていた。
外の空気が爽やかで、目覚めの頭をすっきりとさせてくれる。窓を開けたままにしておいて正解だった。水筒に珈琲を入れて、玄関を出る。
今年の夏は、どういうわけか夜が涼しい。日中とのギャップが大きすぎて、まるで別の季節が混ざり込んでいるみたいだ。
車に乗る。
ラジオが、人種について語っていた。
日本人、アメリカ人、ドイツ人、ユダヤ人──番組のテーマは「人種と集団の本質」だった。良き集団とは何か。人種の特性とは。なぜ人は、無意識のうちに境界を引こうとするのか。根源的な問いが次々と投げかけられる。
言葉を聞きながら、俺はふと海を見たくなった。
やがて、あの場所がある街に入る。
人が多く集まっていた。体育館のある広場にはテントがいくつも張られていて、「総体」と書かれた垂れ幕が揺れていた。子どもたちの姿もたくさん見える。今日ここで、熱い戦いが繰り広げられるのだろう。
けれど、俺が向かうのは冷たい戦いの場所だ。
ここでは、熱くなったら負けなのだ。
建物に入る。
この場所の数少ない救いは、窓から見える海。
住人でなければ見られない、ある種の絶景だ。
それを眺めるたび、ほんの少しだけ心が安らぐ。
いつものようにタイムカードを押す。
席に座って、パソコンの電源を入れる。
夜の間にも、メールが届いていた。次から次へと人がやって来て、やがて始業を告げる鐘が鳴る。
キーボードを叩く音が、どうしても好きになれない。
パチパチという音が、まるで俺の脳を内側から小突いてくるようで、気持ちが悪くなる。
便利な機械のはずなのに、なぜだかダメージを受けているのはこっちだ。
俺はこの仕事に向いていないんだろうか。
そもそも、向いている仕事ってなんだ。
「好きなことを仕事にすればいい」と言う人もいれば、「趣味は趣味として取っておけ」と言う人もいる。じゃあ趣味って何だ? 特技との違いって何?
考えれば考えるほど、わからなくなってくる。
あぁ、生きるって本当に難しい。
昼の鐘が鳴る。
うどん小屋の合図だ。外は相変わらず灼熱だけど、建物の陰に入ると涼しい風が通り抜ける。
そこだけ、季節が違うような気さえする。
注文したきつねうどんには、揚げが二枚のっていた。
二回に一度の割合でやってくるサービス。
本当にサービスなんだろうか。何かの暗号じゃないだろうか。
やれやれおじさんが、うどんを啜りながら、日傘の必要性についてやけに熱く語っていた。あの人の話は、話題がどこから来てどこへ行くのか、いつも分からない。でも、妙に聞いてしまう。
その横で、俺はスマホで株価を確認する。
日経平均株価は、今日も下がっていた。
資本主義は右肩上がりが前提のシステムだ。進化しなければ生き残れない。停滞は、衰退の始まり。
だけど、もう人類にこれ以上の便利って、本当に必要なんだろうか。
資本主義が崩れはじめている今、この先に残る企業って、どんな会社なんだろう。
俺は、揚げをひとくち噛み締めながら考える。
うどん小屋のうどんは、進化し続けているのだろうか。
いや、俺はこのままでいいと思う。
変わらない味って、ある種の祈りのようなものだ。
ふと、世界の端っこがぐらりと揺れた気がした。
俺はどこかで、何かを置いてきたような気がした。
揚げが口の中でほどける。
そして、俺はふいに別の世界へと旅立っていた。
目が覚めると、あたり一面が砂漠だった。
焼けるような地面。けれど、どこか懐かしい匂いがある。
ここは、どこなんだ──?
資本主義の未来か、それとも夢か。
俺は波に飲まれて、遠い時間の向こうに流れ着いてしまったのかもしれない。
目の前には、油揚げが二枚のった、きつねうどん。
それが、唯一の手がかりだった。
このうどんは、いったい何を意味しているんだろう。
生きるって、きっと、未知との戦いなんだ。
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