気がつくと、さっきまでいた世界の記憶が抜け落ちていた。
何をしていたのか、誰と話していたのかすら思い出せない。
ただ、気づけば朝だった。
もうすでに身体は重く、疲労がまとわりついている。
あぁ、あの場所には行きたくない。
でも、選択肢はなかった。
俺は玄関を開け、ゆっくりと車に乗り込む。
朝の通勤道路は、相変わらず車で溢れていた。
それぞれがどこかに向かっていて、でもどこにも辿り着けていないように見える。
太陽の光だけが無邪気に降り注いでいた。
車のラジオから、ある思想家の声が流れてくる。
「人はなぜ働くのか。なぜ争うのか。構造上、そうするように作られているだけだ」と。
なんだか心の奥がざらつく。
そうかもしれない。この時代、この社会は、紙一重の上に立っている。
どんな政治家よりも、どんな実業家よりも、
思想家が人間に与える影響の方が、ずっと大きい気がする。
人の気持ちをどう扱うか。
モチベーションがどれだけ人の行動を決めているか。
それに気づいている者だけが、時代の表面を滑っていけるのかもしれない。
ラジオは次に、あの独裁者の話を始めた。
画家志望だった彼が、なぜ人々を煽動し、国を動かす存在となったのか。
「自己確信力」。
自分を信じきる力。
憎しみは憎しみを生み、怒りは新たな怒りを連れてくる。
それを許したのは、時代であり、感情だった。
「続きは、また次回です」
ラジオの声が、少しだけ余韻を残してフェードアウトした。
ふと車のスピードが落ちる。
あの場所の門が見えてきた。
鉄製の無機質なゲートが、朝の光を受けて無表情に光っている。
門をくぐるとき、毎回、少しだけ呼吸が浅くなる。
どんなに気づかないふりをしても、身体は正直だ。
ここは、何かを削って入る場所だと、知っている。
そして着いた。あの場所に。
また今日も、俺はここにいる。
タイムカードを押す。
その瞬間、どこからともなく獣のような鳴き声が響いてきた。
叫び声のような、うめき声のような、何かが軋んでいるような音。
……もしかして間違って動物園に来てしまったんじゃないか。
そんな冗談が口に出せるほど、この職場には余裕がなかった。
ここでは、感情を無くすことが生きていく術だ。
怒りも、悲しみも、全部ポケットにしまいこんでおかないと、日々を越えられない。
でも、ふざけたやつらばかりだ。
本音を言えば、叫びたくなる瞬間もある。
怒りを力に。
そんな言葉が頭をよぎる。
もしかしたら、俺の髪が金色になる日もそう遠くないかもしれない。
まるであの少年漫画のように。
気づけば、うどん小屋の時間がやってきていた。
深呼吸して店に向かう。
うどんの塩分が、心をほんの少しだけ静めてくれる。
午後にはまた打ち合わせが控えていた。
生産性なんてほとんどない。
ただ誰かの顔を立てるための、空っぽの儀式みたいな会議。
だからいまは、この一杯に集中しようと思う。
国営放送のラジオでは昼のニュースが流れていた。
株価が上昇したらしい。
それを聞いて、俺の血圧も上昇する。
そして体温も上がる。
血管が何本あっても足りないような感覚。
……俺は、本当にここにいるべきなのか?
争いは、小さな火種から始まる。
それが国単位になれば戦争と呼ばれる。
人はどうして争い続けるのか。
思想の違い? 感情の暴走?
あるいは、人間はどこかで争いを求めているのかもしれない。
あの場所での生活は、まさにそういう些細な衝突の連続だった。
「何事もなく一日を終える」——それがどれほど難しいか、ここに来て痛感する。
でも、時には怒ればいい。
怒りは、人を突き動かす。
何かを変えたいという願いの、いちばん底にあるものかもしれない。
「怒れ、怒るんだ」
かつてある父親が、息子にそう言ったという話を思い出す。
その息子は、やがて金髪になった。
その先にあったものとは——
突然、あたりが暗くなった。
まるで夜が突然やってきたかのように、空気が張り詰める。
そのとき、俺の目の前に、七つのうどんのうつわが現れた。
それぞれのうつわが、淡く輝いていた。
かけうどん、天ぷらうどん、カレーうどん、月見うどん、釜玉、肉うどん——
そして最後のひとつは、金色の出汁に包まれた見たこともない一杯。
ふと、うどん小屋のおばちゃんが現れた。
言葉はなく、ただ静かに、その金色のうどんを俺に差し出す。
俺は、うどんのうつわを覗き込んだ。
湯気がゆらゆらと立ちのぼり、まるで俺の怒りを包み込んでくれるようだった。
怒りはそこに確かにあった。
でもそれはもう、暴力的な熱ではなく、何かを育てるための温もりに変わっていた。
——怒りは、力になる。
でもその力を、どこに向けるのか。
それを決めるのは、自分自身しかいない。
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