「人生という大海原に漕ぎ出す時に、その船が誰のものであるか、自分が船長か船員か、船が大きいか小さいかなんてどうでもいい。大事なのは、その船が何を目的として航海をするかだ。」
ーー喜多川泰『手紙屋』
この時期にしては珍しく、肌寒いほどの朝だった。
おかげで、昨晩は久々にぐっすり眠れた。
こういう朝が毎日続けばいいのに、と思いながら、台所でコーヒーを淹れる。
お気に入りの水筒に注いで、今日もあの場所へ。
車のエンジンをかけ、いつものラジオをつける。
今朝のテーマは「歴史から学ぶ経済と団結」。
ちょっと難しそうだが、耳はしっかり傾ける。
人の歴史、文化の歴史、国の歴史。
争いの歴史、そして紙の歴史。
「一致団結すればだいたい成功する」とラジオの声。
たしかに、と小さくつぶやく。
「第一次世界大戦で敗れたドイツは、2010年まで賠償金を払い続けた」と聞いて、思わず「マジか…」と独り言。
国と国民の契約、弱い政府は嫌われる。
歴史は、いつも静かに教えてくれる。
そんなこんなで、あの場所がある駐車場に到着。
ふとスマホのカレンダーを開くと
「おっ、今日は給料日か」
……と言いたいところだが、カードの引き落としのことを俺は忘れていない。
便利すぎる世の中。ワンクリックで何でも買えてしまう。
そうして何気なく積み重ねられる、未来への請求。
これはもう軽い中毒。いや、重症かもしれない。
それでもやっぱり、目で見て手に取って、心から気に入ったものを買いたい。
それが俺の中の、最後の防波堤。
タイムカードを押し、PCを立ち上げた瞬間
襲ってきたのは、今月一番の眠気だった。
そして突然、あの風が吹き荒れる世界へ。
海からの風が強く、空気は緊張で張り詰めていた。
沖には巨大な戦艦。
出撃前の喧騒のなか、乗組員が整列して乗船を始めていた。
その中に……いた。
見覚えのある後ろ姿。
「あっ、うどん小屋のおばちゃん!」
俺は手を振る。
でも、おばちゃんは気づかず、そのまま戦艦へ。
国を守るための戦艦。
胃袋を守るためのうどん小屋。
どちらも、この世界に欠かせない。
強風がまた吹いた瞬間、俺の意識は一気に引き戻された。
目を覚ますと、いつもの職場。
横には、なぜか大型の扇風機。風の正体、これだったか……。
始業の鐘が鳴り響き、あの重たい空気がじわじわと広がっていく。
でも俺の中には、戦艦の中で湯気を上げていた、あのうどんの記憶があった。
今日の業務は「チェック作業」。
ひたすら紙にマーカーを引いていくという、根気と集中力の戦い。
もはやチェックなのか色塗りなのか分からない。
それでも、紙文化には独特の力がある。
目で見る、手で触れる、確かめる。
それがなければ見逃すものもある。
うどん券だって、今でも紙だ。
昼の鐘が鳴った。
うどん小屋のおばちゃん、今ごろ戦艦の厨房でせっせとうどんを湯がいてるのだろうか。
あの世界でも、この世界でも、みんな彼女のうどんを待っている。
きっと紙のうどん券を握りしめて。
ふと空を見上げる。
朝まで重たかった雲が消え、そこには眩しいほどの青空。
……梅雨、明けたのかもな。
夏のはじまりだ。
うどんの湯気と、紙の波をかき分けて、俺の戦いもまだまだ続く。
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