「いま君は、大きな苦しみを感じている。なぜそれほど苦しまなければならないのか。それはね、コペル君。君が正しい道に向かおうとしているからなんだ。」
ーー吉野源三郎『君たちはどう生きるか』
気がつくと朝が来ていた。
窓を開け、扇風機をつける。
すでに日差しは強い。今日も暑くなりそうだ。
昨日のナイターのハイライト。
助っ人と呼ばれる外国人選手が、見事な逆転満塁ホームランを打った。
お見事です。
だがふと、思う。
日本のプロ野球は、いつまで彼らを「助っ人」と呼ぶのだろう。
アメリカではもう、日本人がメジャーを代表しているというのに。
通勤ルートを車で進む。
パトカーが数台、道を塞いでいる。どうやら事故らしい。
安全第一。足を止めて遠回りし、あの場所へ向かう。
ラジオが今日もしゃべっている。
「戦国の世と権力」について。
絶対的権力を知らない日本人。
なぜ人はネガティブな意見に流されやすいのか。
今という時代の、説明しきれない複雑さ。
朝から頭が熱を持っていた。
あの場所で毎日同じことを繰り返すのは簡単だ。
でも、本当にそれだけでいいのか?
打刻機にカードを差し込む。ピッという音。
始業。朝からエアコンが動いている。ありがたい。
いや、外の熱気がすでに「温めている」というより「熱している」状態なのだから、これは当然の処置だ。
朝は本を読むと決めている。ジャンルは問わない。
ただ、ほんの少しでもあの場所にいるという現実を忘れるために。
始業の鐘が鳴る。
クレーム対応が始まる。
俺の仕事だ。現実だ。
朝の体操で会うおじさんと、「梅雨終わったな」と話す。
終わったというか、「いつ始まった?」という感じの今年の梅雨。
日本の四季ももう消えてしまったのかもしれない。
人が地球を変えた?
いや、そんなに人に力はない。
変わっているのは地球そのものだ。
自然界の呼吸が、時に人間の論理を超えて変化を起こす。
今日も変わらない、あの場所での時間。
昼のうどんまでは、まだ遠い。
腹は減る。何があっても減る。
「腹が減っては戦はできぬ」
いい仕事のために、うどん小屋を目指そう。
……なぜか今日は昼休みのチャイムが鳴らない。
立ち上がると、めまいに襲われた。
ガクンと重力が狂い、視界がぐらつく。
気がつくと、目の前に巨大な建造物。
熱と爆音と振動。
何か知っている……記憶の底にある何か。
恐る恐る近づくと、地面が波打ち、
そこから、熱湯のような海水が噴き出した。
俺は、飲み込まれた。
——気がつくと、目の前にはいつものデスク。
ディスプレイには、さっきの巨大な建造物によく似たものの画像が表示されていた。
うどん、食べに行くか。
ふらふらと立ち上がり、うどん小屋を目指す。
だが、その場所はもう、海の中に沈んでいた。
まるで最初からそこにあったかのように、
潮の香りと、うどんの出汁の湯気が、静かに立ち上っていた。
これが夢なのか、現実なのか——俺にはわからない。
ふと、後ろから声がする。
「暑いねえ、今日も」
振り向くと、そこにはあのうどん小屋のおばちゃんが立っていた。
まるで、最初から消えてなんていなかったように。
手には、湯気の立つ一杯のうどん。
そして、微笑みだけが、ゆっくりと揺れていた。
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