外野からバックホームが返ってくる。
捕球、そして滑り込む。
間一髪でセーフ。
空気が、一瞬止まったようだった。
俺はその場面を、息をのんで見つめていた。
ふたたび、鋭い打球が外野へ舞っていく。
次に何が起こるのか、それは誰にもわからない。
そして、目が覚めた。
アラームの音とともに、現実へ戻っていく。
どうしてだろう。
眠ると、時間がいっきに飛んでしまう。
夢と現実の境目は曖昧なまま、気がつけば朝になっていた。
カーテンを開ける。
久しぶりの雨が、静かに降っていた。
傘を忘れないようにしなきゃ……そんなことを考える。
玄関を出て、車に乗る。
ボンネットに当たる雨音が、やわらかく耳に響いてくる。
エンジンをかけると、いつもの朝がまた始まっていく。
車のラジオをつける。
「今日のテーマは、“人はなぜ飛ぶことを決めたのか”」
空と飛行機の物語だった。
空への挑戦は、いつも命と背中合わせ。
昔、人は鳥になりたかった。
羽を作って、空に夢を重ねていた。
ただの夢じゃなかった。
科学が、その夢を少しずつ現実に引き寄せていった。
語られていたのは、あの有名な芸術家。
彼は発明家でもあり、空のスケッチを描いた人でもあった。
18世紀の終わり。
熱気球が、初めて空を舞った。
紙職人たちの手が、その第一歩を生み出していた。
その後、動力をもった飛行船が登場し、
空はついに「移動の道」へと変わっていった。
飛行機とは、動力があって、翼があるもの。
グライダーも熱気球も、その仲間に入る。
ただしヘリコプターは違う。あれは翼ではなく、回転するローターだからだ。
空を飛びたいという情熱は、数えきれない挑戦と失敗に支えられていた。
そうしてようやく、「飛ぶ」という当たり前が生まれた。
でもその当たり前は、当たり前じゃなかった時代があった。
それを知ると、今見えている世界の色が少しだけ変わってくる。
ラジオはとある兄弟の話へ移っていった。
人が空を飛ぶことに成功したあの日、空はもう夢ではなくなっていた。
気づけば、目的地が近づいていた。
窓の外では、相変わらず雨が降っている。
湿気を含んだ空気が、じっとりとまとわりついてきた。
まるであの場所が、俺の足を遠ざけようとしているみたいだった。
それでも、前に進む。
門をくぐり、傘を広げる。
けれど風が強くて、雨がどこからともなく吹き込んできた。
ズボンはすぐに濡れてしまった。
空では、雷が低く鳴っていた。
夏の熱気を、雨がゆっくりと冷ましているようだった。
はじまりの鐘が鳴る。
外に出て体を動かすが、水たまりがあちこちに広がっていた。
空と同じように、気持ちもどこか沈んでいた。
午前中、学習発表会の講評がまわってきた。
思っていた以上に、厳しい内容が書かれていた。
今日は……見なかったことにしよう。
そういう日があっても、いいと思えた。
昼前、うどん小屋の鐘が鳴る。
雨は、いつのまにか止んでいた。
風がまだ強くて、空気はひんやりしていた。
うどん小屋にたどり着き、きつねうどんを注文する。
新しく入ったおばちゃんも、すっかり慣れてきたようだった。
麺をお湯でほぐし、湯気とともに出汁の香りが立ちのぼっていく。
油揚げ、かまぼこ、ネギ。
そしてもう一枚、油揚げをそっと添えてくれた。
「ありがとう」
思わず、声が漏れていた。
うどんを食べ終え、またいつもの場所へ戻る。
今週も、あと二日。
明日を越えたら、大型連休が待っている。
イベント出店がある。
タケルとダイチも、楽しみにしている。
家に帰ったら、準備を少しずつ始めよう。
道具やコーヒー豆、忘れ物がないように。
それまでは、無理せず体力を温存しておきたい。
午後の静けさに包まれながら、
俺は眠気に誘われ、まぶたを閉じた。
向こうの世界でも、雨が降っていた。
でもその向こうに、かすかな光が見えていた。
この世界では、まだ誰も空を飛んだことがないらしい。
どうやったら飛べるのか、みんなで輪になって話していた。
その輪の中心に、うどん小屋のおばちゃんがいた。
白いエプロンが風に揺れていた。
あの穏やかな笑顔は、現実と変わらなかった。
「夢はね、見るだけじゃ足りないよ。叶えなきゃ。
でもね、叶えるには、“誰かと見ること”が大事なんだよ」
おばちゃんは、そう言って周りをゆっくり見渡した。
その隣には、あのレオナルドがいた。
彼の手には、羽ばたく翼のスケッチ。
未完成の図面は、今にも動き出しそうだった。
風が吹く。
雲の切れ間から、光がこぼれていく。
その先には、まだ見ぬ空が広がっていた。
きっとこの世界でも、空は飛べる。
そんな気がしていた、そのとき。
「おい、準備できてるぞ!」
タケルの声が聞こえてきた。
振り返ると、飛行帽とゴーグルをつけたタケルとダイチが立っていた。
「どこへ行くの?」
俺が訊くと、ダイチがニヤリと笑って言った。
「決まってる。空の向こうさ」
ふたりは、風のように駆け出していく。
俺もすぐに、その背中を追った。
夢の空が晴れていく。
その先には、まだ知らない自由が広がっていた。
現実の空も、きっと今ごろ晴れ間を見せている。
そしてまた、明日がやってくる。
さあ、飛ぼう。
大空は、もうすぐそこにある。
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