「焦ってはいけません。こつこつ、こつこつです」
ーー宮下奈都『羊と鋼の森』
昨晩は、どうにも寝つけなかった。
気持ちはどこかざわざわしていて、身体も心も沈んでいた。
今朝も雨。灰色の空が気分に輪をかける。
仕事なんて行きたくない。でも現実は、無慈悲に背中を押す。
玄関を開け、無言で車に乗り込む。
ハイブリッドカーは静かすぎて、まるで夢の中の乗り物のようだ。
エンジンがかかったことに気づかず、「さぁ、行こうか」と呟いた。
道にはカッパ姿の高校生、自転車の車輪が水を跳ねている。
遠くでサイレンを鳴らす救急車。
車の中は、俺だけの領域。誰にも邪魔されない。
天井に落ちる雨音が、世界からの応答のように聴こえる。
不意に、ラジオから歴史番組が流れ出す。
「本日は、豊臣秀吉と徳川家康の一騎打ちについてお送りします」
戦国の名将たちが語られる。彼らは何を背負い、何を信じていたのか。
その瞬間、視界が歪んだ。
いや、歪んだのは現実の方かもしれない。
フロントガラスの向こうに、城が現れた。
瓦屋根、槍を持った兵士たち、馬上の武士。
これは…まさか。
俺の車は、湿った土の上を走っている。
遠くに戦の音が聞こえる。弓矢が飛び、火薬がはぜる。
一人の武士がこちらに歩み寄ってくる。目を細めて俺を見つめ、こう言った。
「お主…未来から来たのか?」
「……さぁな。ただ、今しか存在しない世界にいるだけさ」
ふっと意識が戻る。目の前には職場の駐車場。
いつものようにタイムカードを押し、いつものデスクへ。
昼休みが終わる。午後の仕事がはじまる。
定時までがんばろう。そう、俺は時間を気にして生きている。
だけど——
この世界には「今」しか存在しない。
雨は、止んでいた。
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