「この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない」
「でも少なくとも何かを信じることはできる」
ーー村上春樹『騎士団長殺し』
目が覚めると、あたり一面が霧に包まれていた。
どこまでも白く、静かな世界。まるで音すら霧に吸い込まれてしまったかのように、何も聴こえない。ただ、自分の足音だけが、かすかに地面に反響する。
「ここは…どこだ?」
思考は靄の中に沈み、身体もふわふわと現実感を欠いている。ただ前へ、足を一歩ずつ踏み出す。その先に、突然ぽつんと扉が現れた。古びた木製の扉には、鍵も取っ手もない。
俺は恐る恐る手を伸ばす。触れると、まばゆい光とざわめく音がいっせいに押し寄せ、目がくらんだ。
ハッと息をのんで、目が覚めた。
夢だったのか。それとも、あちらが本当の世界で、こちらが夢なのか。俺は布団の中で一瞬、現実の輪郭を探す。
月曜日。
カレンダーが容赦なく、新しい週の始まりを告げていた。
眠い目をこすりながら朝の支度を整える。もし今日が日曜日だったら、と心のどこかで思うが、それは叶わぬ願いだ。
「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ。」
エヴァンゲリオンのセリフを心の中で呟きながら、通勤の道を歩く。耳に届くのは、鳥のさえずり、車の走行音、自転車のブレーキ音、人々の足音…。世界は音に満ちている。まるで自分以外が、何かに急き立てられるように動いているように見えた。
会社の玄関に貼られたポスターが目に入る。
「ワークライフバランスを大切に」
俺はふっと鼻で笑った。「バランス」とは、会社が口に出すには少し都合が良すぎる言葉だ。残業が前提の職場でバランスなど保てるのか?本来、仕事は生活の中にある一部。それなのに、どこかで主従関係が逆転してしまっている。
「ライフ・イン・ワーク」ではなく、「ワーク・イン・ライフ」でありたい。
昼休み、ジメジメとした空気がまとわりつく。ニュースでは梅雨入りの報が流れていた。多くの人にとっては鬱陶しいこの季節も、植物や海には必要な恵みである。生きるものすべてにとって、大切なのは“バランス”なのだ。
考えすぎると疲れてしまうから、俺は少し目を閉じてみた。すると、今朝の霧の中の夢がふと頭をよぎった。
あの扉の向こうにあった光と音。それは“この世界”の象徴だったのかもしれない。
それでも思う。
この曖昧な世界の中で、自分という存在が確かにここにいること。
霧の中を歩くように、見えない明日を一歩ずつ歩いていること。
「よし…沖に出るか。」
俺は帰り道、いつもの小さな船に乗った。誰もいない大海原で、静かな波のリズムに揺られながら空を仰ぐ。曇った空の向こうにも、太陽は確かにある。
バランスとは、目に見えるものだけで測れるものではない。
心のどこかに、しっかりと自分の「軸」があること。
それこそが、霧の中で迷わない唯一の術なのかもしれない。
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