「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」
──村上春樹『風の歌を聴け』
朝、目覚めた瞬間から俺の金曜日は始まっていた。
憂鬱と疲労が朝食より先に胃に届く。天気は不明、カーテンを開ける気力すらない。
出社、エレベーターのドアが静かに開く。
扉の向こうに広がるのは、感情の死んだ人々が集う灰色の盆地。
そこに俺もまた、違和感なく溶け込んでいく。
会議室では「若手の意識改革」なる抽象画のような話題で打合せが展開されていた。
上司は「メールの件ね」とうなずくが、実際の中身は確認していない。俺はそれを知っている。なぜなら、そのメールを書いたのは自分だからだ。
苦いインスタントコーヒーをすする。
“苦い”というより“怒っている”ような味がした。
キーボードの音がやたら耳障りで、世界のすべてが敵に思えてくる。
眠気に抗えず舟をこぐ者、なぜか話が長い同僚──職場という名の動物園に今日も異常はない。
昼は社食の激安うどん。
コスパは高いが、俺は唐辛子で己の味覚を殺してしまう。「加減」という概念が昼に限って彼を裏切る。
午後、一本の電話をかける。
店に確認の連絡だ。だが、これはただの用件処理ではない。
俺にとっては「自分はまだ、誰かとちゃんと会話できる人間だ」という確認作業でもあった。
向こうの店員は礼儀正しく、少し噛んだ。それがなぜか嬉しかった。
そんなささやかな和みも束の間──背後で突如、奇声を上げるおっさんが出現。
「ホッホゥ!フォォ!」と叫んでいた。新しい宗教か、古いバグか。
怖くて俺はそっと席を立つ。
そして定時。
この日いちばん真剣に走ったのは、オフィスから駅までの数百メートルだった。
俺は風になる。いや、排気ガスまみれの風に紛れる。
「やっと…金曜が…終わった……」
心の中で声にならない叫びがこだまする。
週末は、スイーツに満ちた店でささやかな夢を見よう。
現実に踏みつけられた魂を、クリームと砂糖が癒してくれるかもしれない。
完璧じゃない日々。
でも完璧な絶望など存在しない。
だから俺は、明日もたぶん、生きていける。
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