はるが きて
めが さめて くまさん ぼんやり かんがえた
さいているのは たんぽぽ だが
ええと ぼくは だれだっけ
だれだっけ
―― くまさん まど・みちお
深くて、深くて、どこまでも潜れるもう一つの世界から、俺は静かに戻ってきた。
現実という名のこの世界では、雨が音を立てて降っていた。冷たくはなかった。むしろ、優しい音だった。
火曜日。
目覚ましよりも早く目が覚め、カーテンを開けると、外は土砂降り。
だけど不思議と気持ちは沈まない。嫌いじゃないんだよな、こういう雨。まるで、誰かがこの世界を少しだけ洗い直してるみたいでさ。
職場に着くと、猛烈な睡魔が襲ってきた。
ああ、あっちの世界からもう1人の俺が呼んでる。
もうひとりの別の世界の俺。
始業までまだ時間がある。なら、ちょっと行ってくるか。
気づくと俺は、もう一つのパラレルワールドに足を踏み入れていた。
いつもの道、同じ街、同じ雨。でも空気の密度が違う。重くて、少し甘い。
その世界では、俺は別の誰かとして生きていた。名前も、肩書きも知らないけど、それでも確かに“俺”だった。
けれど、この世界では“ふたりの俺”が会うことは許されていない。
それがこの世界のルール。破ればきっと、どこかの時間が崩れる。
……ふと、背後から名前を呼ばれたような気がした。
振り返った。でも誰もいなかった。
ただ、雨が降っていただけだった。
目を開けると、俺は元の世界の机の前にいた。
うん、いつもの月並みな現実だ。でも、どこか違う気がした。ほんの少しだけ。
昼になる。雨脚は衰えず、世界は灰色に包まれている。
社食でうどんをすする。今日もおばちゃんはいなかった。
彼女もまた、もう一つの世界を旅しているのかもしれない。
ラジオでは「今日でひとつの時代が終わった」と言っていた。
でも俺は思う。
時代は終わるんじゃない、始まり続けているんだ。
雨の中で、確かに何かが芽吹いている気がする。
――ええと、俺は……だれだっけ?
だれだっけ?
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