とても眠たい。
どうやら朝が来たようだ。
起きたくない。起きれない。
しっかり眠ったはずなのに、まだ眠たい。
歯を磨いて、顔を洗う。
水筒に珈琲を淹れて行こう。あの場所へ。
塩おむすびをひとつ食べて、車に乗り込んだ。
ラジオから、静かに語りがはじまる。
今日のテーマはジャンヌ・ダルク――
女性騎士。そしてフランスの救世主。
彼女は一体、何者だったのか。
予言者? 神の声の媒介者?
素人の戦士でありながら、なぜ勝ち続けたのか。
「人間は、認知フレームで判断コストを下げて世界を把握している」
「だが、その枠に収まらない“バグ”が現れた時、歴史は動く」
戦乱の時代に突如現れた少女。
勝ち続けるしかなかったジャンヌ。
ラジオの声に耳を傾けながら、俺はハンドルを握る。
やがて、あの場所がある街に着いた。
もっとジャンヌの話を聴きたかったが、降りなければならない。
車を降りると、空から聞こえた気がする。
「今日は、あの場所へ行かなくてもいいのでは?」
いや、行かねばならぬ。
今日も真夏の日差しが、刺すように強い。
門をくぐり、歩き出すと向かいから“歩きスマホ野郎”がやってきた。
今日も両耳イヤホンで、あの場所の音を遮断している。
……よほど聴きたくないのだろう。
タイムカードを押し、セミの大合唱に迎えられる。
「今日も頑張ろう」
はじまりの鐘が鳴るまで、深い深い眠りに落ちた。
そして、ふたたび鐘が鳴る――はじまりの合図。
この繰り返しは、いつまで続くのか。
そんなことを考えながら、朝の体操をする。
トルストイの人生論にあったな。
「幸福のために、人は苦痛を経験するのだ」と。
体操をしながら、日に日に痛くなる関節に思わず笑う。
それでも今日も一歩が始まる。
今日は少しドキドキしている。
有給申請の日だからだ。
昔ながらの年休カードに、日付と理由を記入し、事務所へ。
「……はい、これで大丈夫ですよ」
すんなりとハンコを押してもらえて、俺は少しホッとした。
明日は、ついに有給休暇。
メールは山のように溜まるだろうが、それは明日の問題だ。
「今できることをやろう」
そう自分に言い聞かせる。
お盆前のこの時期は、案件がひしめき合う。
「この納期、無理じゃね?」
とつぶやきつつ、今日もパソコンに向かう。
会議室はすべて満室。
いったい何をそんなに話すのか?
そんな疑問を抱きながら、うどん小屋の鐘が鳴る。
命の危険を感じるほどの猛暑。
アスファルトの先に蜃気楼がゆらいでいる。
今日も俺は、うどん小屋を目指した。
さすがに暑すぎたのか、店内は空いている。
俺は熱々のうどんに七味をたっぷりかけた。
一口食べる。辛い、辛すぎる、でも――うまい。
その瞬間、意識が遠のいていった。
目を覚ますと、そこは中世ヨーロッパのような街並み。
後ろから地鳴り。無数の人々が戦っている。
「ここは……どこだ?」
その中に、甲冑をまとった人物がひとり。
まさか……
――うどん小屋のおばちゃんだった。
馬にまたがり、手には熱々のうどんと七味。
敵に七味を振りまいては、次々に倒していく。
兵士たちは、口々に叫んだ。
「うどん小屋のジャンヌ・ダルクだ!」
炎の中を駆け抜ける彼女の姿が、確かに光って見えた。
それはただの妄想か、疲れのせいか――
だが、どこか胸の奥が熱くなっていた。
俺たちも、あの戦場でそれぞれの「小さな戦」をしている。
一杯のうどん、一枚の年休カード、ひとつの納期。
そのすべてに、俺たちのジャンヌ・ダルクは宿っているのかもしれない。
明日は有給休暇。でもきっと、戦いは続いていく。
俺はもう一度、タイムカードの前に立った。
そして、つぶやいた。
「今日も、お疲れさまでした」
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