とてもよく寝られた夜だった。
三連休の真ん中。今日という一日は、少し特別な匂いがする。
朝、新聞をひらけば「選挙へ行こう」の見出しが目に入る。
日本が変わるかもしれない日。いや、変わらなければならない日だ。
夜には夜市もある。
港町の夏が本気を出す夜。
でも、その前にひと仕事。
風が強い予報だったので、早朝のうちに沖に出ようと決めていた。
玄関を出ると、夏とは思えないほど爽やかな風が吹き抜けていった。
蝉の声が遠くから聞こえてきて、港に着いた頃にはもう陽はすっかり高くなっていた。
船を出す準備をする。
先日受けた船舶の安全講習を思い出しながら、燃料、エンジン、通信機、すべてひとつひとつ確認していく。
海は甘くない。確認は怠らない。
ライフジャケットをしっかり着込んで、俺はゆっくりと舫(もやい)を解いた。
風はやはり強く、沖合は白波が立っていた。
無理はしない。風裏になる小島の近くへ回り込む。
帆を上げると、大きな穴が空いているのに気づいた。
あぁ、今年で最後かもしれないな。よく働いてくれた帆だ。
しばらく流していると、さっそく一本。
ピクリとも暴れないのに、妙に重い。
手繰り寄せると、銀色に光る真鯛。立派なサイズだ。
美しい魚だな。何度見ても飽きない。
ふいに、遠くからけたたましい爆音が響いてきた。
海の上にも、暴走族は現れる。
水上バイクに乗った若者たちが列をなして、こちらの船のすぐ脇を猛スピードで通り過ぎていく。
海のお巡りさんの船が見えるけど、なぜか見て見ぬふりだった。
たしかに、海には道がない。
でもだからこそ、個人のマナーと責任がすべてだ。
ルールとは、誰かに守らされるものじゃない。自分で選ぶものだと、俺は思う。
その後、もう一匹真鯛が釣れた。
コン、コン、コン、と竿先をたたくあの引きがなんとも言えない。
けれど、釣れるからといって釣りすぎるのは違う。
自然の命には限りがある。共に生きるというのは、奪いすぎないことでもある。
午前中で釣りは終わりにして、一度港へ戻る。
今日は選挙だ。
タケルとダイチにはまだ選挙権がない。
だからこそ、大人である俺たちが、しっかりとその一票を投じなければならない。
投票所は町の公民館だった。
顔なじみの職員さんに挨拶をして、投票用紙に鉛筆を走らせる。
清き一票、なんて言葉は少し古くさいかもしれないけれど、やっぱり心の中はどこかピンと背筋が伸びる。
昼ごはんは、塩分補給も兼ねてラーメンにした。
夜の夜市に備えて、少し昼寝でもしようかと思ったけれど、結局そのまま海を見に行った。
午後の港は、まだ風が残っていた。
それでも空は晴れて、夏の空気が港町を包みこんでいた。
夕方になると、夜市の準備が始まった。
テントが並び、提灯が吊られ、焼きそばの匂いが風に乗って流れてくる。
町の人たちがぞろぞろと集まってきて、いつもの風景が少しずつ、特別な夜の顔に変わっていく。
顔見知りの人たちと挨拶を交わしながら、輪くぐりで厄を落とす。
子どもたちが金魚すくいに歓声をあげ、太鼓の音が響く。
夜が深まるほどに、伝統の音頭が町を包んでいく。
ひとつひとつの踊りの手ぶりに、この町の記憶が宿っている。
大人も子どもも、一緒になって踊る姿は、まるでひとつの生き物のようだった。
未来に残したいのは、こういう時間なんだと思う。
夜市が終わり、片付けもひと段落ついたころ、ふと思い出した。
そうだ、今日は選挙の日だった。
家に帰ってテレビをつける。
速報が流れ、名前が読み上げられていく。
日本が、少しでも良い方向に進んでいくことを願う。
そのための一票を、俺は今日、たしかに投じた。
夜風が気持ちいい。
タケルとダイチはもう寝ている。
静かな夜だ。
それでも、どこかで何かが動き出している。そんな予感のする夜だった。
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