どりゃぶりの雨の中、俺は知らない街を歩いていた。
向こうの方で誰かが話している。だが、雨音にすべてかき消される。言葉は粒となって、空気の中に溶けていく。
熱帯夜。久しぶりに、本格的な熱帯夜を過ごしている気がする。
今日は有給休暇。
それだけで少しうれしい。
あの場所のことは……そう、今日は忘れよう。
やることもたくさんある。けれどその前に、沖に出たかった。
昼前から風が強くなる予報。ならば夜明け前が勝負だ。
港に着いたのはまだ空が薄青い頃。
風はまるでない。ベタ凪だ。
静けさの裏側に、別の時間が眠っているような気配があった。
出港前の準備をしながら、顔見知りのおじさんに最近の海の様子を聞く。
「昨日は潮が止まってたけんな。今日はええかもしれんよ」
その言葉に背中を押され、俺は海に出た。
平日の海。
どこか現実から切り離されたような感覚になる。
船の上には俺ひとり。
海の上なのに、セミの合唱が空気を揺らしている。
夏だな。
釣り糸を垂らす。釣れても釣れなくても、かまわない。
ただ、海に浮かんでいる。それだけでいいと思えた。
クラゲが今年は異常に多い。
水面下でゆらゆらと漂いながら、まるで別のリズムで生きているようだ。
そう思ったときだった。遠くで鐘の音がした。
あの場所の、はじまりの鐘。
そう、海の上でも聴こえるのだ。この鐘の音は。
――ゴォン……。
音が響くと同時に、風が吹いた。
強い風。急速に空が灰色に変わっていく。
これは……やばい。
急いで港へ戻る。風と霧は海では命取りになる。
魚には出会えなかったが、それでもいい航海だった。
港には漁師たちの船も次々と戻ってきていた。
彼らの生簀には魚がいっぱいだ。
やはりプロはすごい。
港で重鎮に会った。
「昔はもっと魚も獲れたけどなぁ」
そう言って、遠くの海を見つめるその眼差しには、どこか不思議な色があった。
海が変わったのか。それとも……。
歴史を聞くのは面白い。
俺たちは、今、どんな流れの中にいるのだろう。
朝ラーメンをすすって、次の目的地へ向かう。
今日の有給休暇、一番の目的は保健所に行くことだった。
飲食店に関する保険に入るためだ。
保健所に着くと、駐車場はかつてないほどの混雑。
何が起きている?
車からは親子連れが次々と降りて、隣の建物に吸い込まれていく。
夏休みの催しか何かだろうか。
なんとかスペースを見つけて車を停めた。
保健所の係の人に挨拶をして、手続きを受ける。
いまの季節はやっぱり食中毒。
説明を聞きながら、俺は改めて気を引き締める。
一番大事なのは、手洗いと消毒、そして食品の管理。
保険というのは、起きるかもしれない“何か”に備えるものだ。
何もなければそれでいい。
それでも備えておく。
保険はお守りのようなもの。信じて持つものだ。
家に戻って、少し横になる。
早朝から動いていたから、まだ午前中だというのに身体が少し重い。
そして今日は、うどん小屋の鐘は鳴らない。
そう思ったとき、ふと、意識が滑り出した。
俺は再び、あの世界へと旅立っていた。
晴れ渡る空。
地面は濡れていた。さっきまで雨が降っていたらしい。
濡れた地面が、太陽の熱であっという間に乾いていく。
この世界も、灼熱。
けれど、こちらの世界には“時間”がない。
いや、時間がないのではなく、“時間の流れ”というものが一定ではない。
行きつ戻りつ、形を変え、どこかへ消えていく。
それはワープとは違う何か。俺にも説明できない。
ただ一つわかるのは、この世界の出来事は――向こうに戻ると、すぐに忘れてしまうということ。
俺は確かに、どこかにいた。
けれど、どこだったのかは思い出せない。
それだけが、確かなことだった。
昼からは明日の夜市の準備を始めよう。
昼の光がゆっくりと夜に溶けていく、その瞬間が好きだ。
夏の夜は、まだまだこれからだ。
外に出ると、アスファルトが熱で波打っていた。
大きなクーラーボックスを買った。
明日は氷をいっぱいにして、ハイボールを作ろう。
準備は整った。あとは日が陰るのを待って、車に積み込むだけだ。
それまでの、ほんのひととき。
俺はもう一度、まぶたを閉じることにした。
外ではセミが鳴いている。夏の音が遠ざかる。
眠りの狭間に、あの世界は静かに口を開ける。
時間のない場所。重さも形も、意味すらも揺らぐ場所。
有給休暇の午後、俺は再び、その場所を旅する。
――夢か現か、その境界線の先へ。
コメント