朝を迎えた。
さっきまで向こうの世界にいたような感覚が残っているが、記憶は曖昧で、ただ身体が重たい。
今日を乗り越えれば、いよいよ大型連休が始まる。そう思うと、ほんの少しだけ力が入る気がした。
「起きよう、起きなければ」
言葉に出して、自分に命令するように布団から這い出た。
カーテンを引くと、淡く冷たい光が差し込んだ。昨日の雨のおかげだろうか。澄んだ空気が部屋に流れ込む。
身支度を整えて玄関を出ると、頬に触れる風が思った以上に冷たい。
けれど、それがかえって気持ちよく感じられた。
車に乗り込み、エンジンをかけ、いつものようにラジオをつける。
ちょうど、技術とビジネスの特集が流れていた。
「飛行機はまるで火のようなものだ」という言葉が耳に残った。
技術は人類を進歩させるが、使い方を誤れば破滅へと導く。
便利さの裏にある危うさ。
人々の生活を豊かにする反面、心を蝕むものにもなりうる。
進歩とは、果たして前進なのか、それとも錯覚なのか。
世界初を目指す者たちが、何か大切なものを置き去りにしている気がする。
「なぜ人は一番を目指すのか?」という問いに、ラジオは答えを出さなかった。
ただ、静かに、考えを促すように番組は続いていった。
そんなことを思いながら、あの場所のある街に着いた。
車を降りると、空気はさらに冷えていた。
門をくぐると、それまでの爽やかさが一転し、どこか重苦しい雰囲気が漂っていた。
タイムカードを押し、身体を預けるようにして一歩、足を進める。
途端に睡魔に襲われた。
少しだけ、ほんの少しだけ向こうの世界に行ってこよう。
そう思った瞬間、意識がすっと遠のいたが、現実はすぐに僕を連れ戻した。
はじまりの鐘が鳴る。
ラジオ体操で、重たい身体をなんとかほぐす。
「昼まで頑張ろう」と心で呟く。
午前の仕事は、いつも通り。変わったことといえば、実行委員とコメンテーターが集まり、学習発表会の講評について話をしていることくらいか。
次の会に向けた準備だろうか、それとも前回の反省か。
いずれにしても、彼らの表情は晴れない。
何か、言葉にできない不安のようなものが漂っていた。
昼が近づく。
あと少しの辛抱だ。
連休明けのことは、いまは考えないようにしよう。
身の回りを片付け、昼の鐘が鳴る。
今日は、うどん小屋には行かない。
とにかく早く、ここから出たかった。
外は今にも大雨が降りそうな空模様。
ひんやりとした空気に、強い風が混じる。
真っ黒な雲が、あの場所を覆っていた。
門を出ると、不思議と眠気がすっと消えていた。
やはり、あの場所は何かが違う。
言葉にはできないが、感覚として、確かに違う。
冷たい風のなか、車に乗り込む。
昼ごはんは、ピリ辛冷麺に決めた。
焼肉屋さんのあの絶品ピリ辛冷麺。夏が近づくこの季節、あの冷麺以上に喉ごしの良いものはない。
辛さの中に味変で追加したお酢をいれてキリッとした酸味が広がり、身体の奥から目が覚めていく感じがした。
するすると胃に収まっていく冷麺に、心まで少し軽くなる。
「ごちそうさまでした」
思わず声に出ていた。なんだか、しみじみとした気持ちだった。
腹ごしらえを終えて、次は銀行へ。
イベントで使う車の購入資金について話をするためだ。
大型連休を前に、銀行はごった返していた。
受付の前では、スマホ片手に大声で話すおじいちゃん。
田舎では珍しくない光景だけど、ここでは少し浮いて見える。
そのおじいちゃんの順番が来たが、なかなか話が伝わらない。
後ろから、別のおじいちゃんが順番を無視して受付に割り込んでくる。
「最近の若いもんは……」とよく言うが、案外こういうときにタチが悪いのは年配のほうかもしれない。
騒がしさと慌ただしさの中で、ただ静かに、自分の番を待った。
やがて眠気がまた襲ってくる。
ウトウトしかけたそのとき、「次の方どうぞ」と呼ばれた。
立ち上がろうとしたその瞬間、怒号が響いた。
いきなり現れたブチギレオヤジ。
声を荒げて、机を叩き、職員に詰め寄っている。
「これは……警察を呼ぶレベルかもな」と内心ヒヤリとした。
行員さんの顔にも、疲れと緊張がにじんでいる。
話も終わり、銀行を出る。
あのブチギレオヤジは未だ興奮状態だ。
俺はそっと銀行を後にした。
イベントで使うコーヒー豆を受け取りに珈琲豆の焙煎所に行く。
珈琲器具に囲まれたとても落ち着く空間でジューシーで味わい深い一杯を淹れてもらった。
その味は、疲れをやさしく溶かしてくれるようだった。
「ごちそうさまでした」と、自然と声が出た。
帰路につく。
車を走らせながら、頭の中は徐々にオフモードへと切り替わっていく。
明日から始まる大型連休。
どこかに出かける予定はないが、それでも心が少し弾む。
家に着くと、カピバラのタケルとダイチがこちらを見ていた。
目が合った瞬間、彼らの目にも「ワクワク」が宿っているのがわかった。
静かだけど、確かに嬉しい始まりだった。
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